瀬戸の磁器を改良し、その功績から磁祖と称えられる江戸後期の陶工。
文化元年(1804)年に九州の天草や佐々へ修業に赴き、文化4年(1807)帰国。
民吉のもたらした技術により瀬戸の磁器生産は急激に発展し、全国に名を馳せた。
加藤民吉は、明和9年(1771)2月20日に、瀬戸の窯屋である大松窯の次男として生まれました。
民吉が生きた時代、掟により窯屋を継ぐことができるのは長男だけでした。民吉は次男であったため窯屋を継ぐことが出来ず、当時新田開発をしていた熱田で父吉左衛門と共に新田開発に従事します。